あらたなみらいにむけて
東北の子供たちに
いち早く安らぎの笑顔が訪れますように
東北の子供たちに
いち早く安らぎの笑顔が訪れますように
きっと繋がる日本の社会と人々。
give and give.
日本人の持っている個々のポテンシャルにこそ
復興を願う全ての希望と魂へとつながると思う。
信じて行動し、希望を描きだせば必ず新たな光が
胸の中を照らしてくれる。
地震に負けない。
エセ偽善はいらない。
そう信じたい、日本人のひとりとして。
今回の取材で最後に訪れた場所、鶴ヶ浦生活センター。港町に位置する鶴ヶ浦地区は、被災後50日程度の日を重ね、ライフラインは電気だけが灯ったが、未だに水道の復旧のメドがたっていない。メディアの情報はどうしても偏りを持ち、大きな街にはNPO、ボランティア入り復旧活動がなされているけど、地理的に辺鄙な場所にはまだまだ救援物資が行き届いていないのが現状だった。多分、ここだけではないと思う。まだまだ、不安を余儀なくされている人たちが必死になって生きているということを忘れないでほしい。
避難所の声
お肉が食べたい
女性の下着類がたりない
タバコがほしい
耳栓など
〒988-0818
宮城県気仙沼市三ノ浜57-13
鶴ヶ浦生活センター
元々、松の木が生い茂っていた場所には、1本の松しか残ることもなく全ての街の風景を
無とかした。街の風景がなくなった今残るのは、気のくずの海だった。
津波による壊滅的な被害の中、神社の鳥居はそこに変わらず鎮座していた。
気仙沼市場周辺は、破壊の規模が工業地帯ということもあって、想像を遥かに超越していた。
沿岸部に位置する南浜町は、津波の被害と同時に二次災害により火災が発生した。
小学校の校舎は、焼け野原とかしその光景は広島と長崎を思い起こさせる景色に近かった。
潮風と廃棄物と死臭が混じりあり何ともいえない匂いを醸しだしていた。
南三陸地方の入り組んだ地形は、10km近い奥地まで壊滅的な被害を及ぼした。メディアでは、
報道されているものの、未だ手つかずの場所ばかりだった。
街中が津波の被害により、クシャクシャな世界に変わっていた。自衛隊の職員が、雨の中
復興の為に身を粉にして働いた。道路はある程度復旧していたが、余りにも被害が大きすぎ
手つかずだらけの場所だった。
遅くなりましたが、
これから被災地の写真アップしていきます。
今、ドイツの方でもチャリティー募金のために写真を提供しています。
もし今後そのような活動で写真を必要とされている方がいらっしゃいましたら
ご連絡ください。無償で写真データ貸し出しいたします。
遠洋漁業、マグロ漁船で名高い気仙沼市、鹿折町は震災により壊滅的な被害を受けた。
津波、地震による二次災害により海は焼け野原になり、町も火の海になった。400t近い
船が未だに解体することなくごろごろと町の中に散乱していた。