街場の教育論

内田樹さん「街場の教育論」
興味深い文書だったので抜粋し、紹介させて頂きます。(一部省略)
異界との回路の開いている場所というのは、「こちらの世界」でもないし、「あちらの世界」でもない。両方に同時に属しているともいえるし、どちらにも属していない非武装中立地帯(Noman’s land)でもあると言える。そこには両方の世界のものが流れ込んでいて、混ざり合っている。そこにいると両方の世界に惹きつけられる。現世と異界の「汽水域」みたいなところです。
神社仏閣を「清浄な場所」というふうに捉えてる人がいますけど、私はそれは少し解釈が違うような気がします。まったく清浄無垢な場所には生命のための余地がないからです。生命がない、波動もない、葛藤もない。ただしーんと静寂だけが支配している。そういうと、宇宙空間の果ての、『2001年宇宙の旅』の最後で、ボーマン船長がたどりついた半透明のホテルの部屋のようなところを想像してしまうのですが、あれが宗教的な理想空間だと私には思われません。そうではなくて、二力のせめぎ合いの中で人間が一瞬もとどまることなく揺れ動き、引き裂かれている状態、それが人間の「本態」ではないか、私はそう思うのです。
『韓非子』に『矛盾』という逸話があります。楚の国に矛と盾を売る商人がいて、自分の矛はあらゆる盾を貫き、自分の矛はどんな矛もはねかえすと誇った。「では、おまえの矛でおまえの盾を突いたらどうなるか」と問われて絶句した、というお話です。
 でも、この絶句はいったいどういう絶句だったのでしょう。子どもの頃、この話を読んだときには、商人は自分の愚かしさを恥じて絶句したのだとばかり思っていました。でも、あるときからそれは違うのではないかと思うようになりました。この商人は絶句したのではなく、小賢しいといかけにたいして「にやり」と笑って、「どうなると思う?」と反問したのではないか、と。
 もし商人の惹句がほうとうなら、そこには「矛は盾を突き通せず、盾は矛をはねかえせない」動的均衡が生成したはずです。「それがじつは人間の本態ではないのか?」と商人は言おうとして、あえて黙っていたのではないでしょうか。
葬礼の本義
「葛藤と対立の中にあることを常態とするような人間のありかた」を私は「霊的」(spiritual)というふうに呼びたいと思っています。「霊的」という語の私の使い方はたぶん一般の宗教家や宗教学者が使っているのとはずいぶん違っていると思います。でも、この「中間にあること」「どちらの世界にも確定的には帰属していないこと」を人間の冷静の根源的規定とするアイディアは、思いつきなものではありません。きあなり長期にわたる集中的な思索が導いた結論です。どうして私が「霊性」という語をそのように定義するに至ったか、まずはその話から始めたいと思います。
 人間が霊性という概念を獲得したのは、葬礼を始めたときであろうと私は考えています。
 葬礼は、「礼」のところで少し触れましたように、人類が「死者」という概念を持ったときから始まります。それまで、霊長類は「死者」という概念を持っていませんでした。「死んだ同類」はセミの抜け殻や枯れ葉と同じような平凡な自然物であり、そのままに遺棄されました。チンパンジーの母親は死んだ子どもの死骸をいつまでも抱きしめています。生きている子どものように扱うのです。
そのうち死骸が腐乱してぼろぼろに解体すると、そのまま棄ててしまいます。「生物」から「モノ」へジャンプする。生きているのでもないし、無生物になったわけでもない、中間地帯というのものを人間以外の霊長類はおそらく知りません。
でも、あるとき、死んだ同類はダイレクトに自然物に還るのではなく、その中間のプロセスを経過するということを思いついた霊長類の一部がいた。それが人間の祖先です。彼らは「生きている者」と「自然物」の中間に「死者」という第三のの概念を挿入したのです。
 「生者」は死後ただちに「自然物」に還るわけではない。その途中で「死者」
という段階を経由する。「もう死んでいるのだが、まだ十分には死に切っていないもの」という状態にあるもののことを「死者」と呼びます。私たちの遠い祖先は「死者」を「自然物」に還すためには、ある種の儀礼が必要であると考えた。
この儀式を正しく執り行えば死者は去る。儀礼が誤っていると、死者はとどまり生者に災いをなす。この「死者をして去らしめるための正しい儀礼」のことを孔子は「礼」と言った。そして、「礼」を君子が学ぶべき学術の筆頭に置いたというのは先述の通りです。
 私はこれを「宗教教育」の基本原理だと思っています。
 では「正しい儀礼」とはどんなものでしょうか。
それは「あたかも死者が死んでないかのようにふるまうこと」です。
孔子は、子はその親の死後三年喪に服すことを命じました。具体的には世俗事にかまけ、歌舞音曲に興じることを控えなさいということですが、これは「重病人が家の中にいる」ときの作法とほとんど同じです。周りの人間は病人の送るかすかなシグナルに反応して、その生理的不快を取り除き、そのメッセージを聞き取ることを優先的な仕事としています。そいういうときはあまりビジネスや恋愛に精を出したり、飲めや歌えの宴会をしたりはしないものです。そんなことをしていると「かすかなシグナルを聞き落とすかもしれない」からです。
 それは死者に向かって「あなたは私にどうしてほしいですか?」と訊くことです。むろん、答えは帰ってきません。でも、それまでの死者とのかかわりの記憶を細部にわたって甦らせれば。死者が「私」にどうふるまってほしいのか、どういう決断を下してほしいのか、どう生きてほしいのか、それを推察することは可能です。決断すべきとき、選択すべきときに、「死者は私にどうしてほしいだろう?」という問いを自らに向ける習慣を内面化した人にとって、死者は生きているときと同じように、あるいは生きているとき以上に、生きている上での指針となっている。そして、死者がそのように生者のうちに「生を導くもの」として登録され終えたときに、同時に葬礼も終了します。死者が生者の中に規矩として内面化したときに死者は去る。これが葬礼の意味です。私はそう理解しています。
死者とのコミニュケーション
 葬礼の本義は「死者は生者に何をしてほしがっているのか」を問い続けることにあります。このような問いに、一般解があるはずがありません。ですから、この問いに対する答えは「わからない」です。
 でも、それだけでは済まされない。やはりどうしてよいかを知りたい。答えを教えてくれる相手は死者しかいない。だから死者からの帰ってくるはずのない答えを求め続ける。この「答えの戻ってこない対話相手に問いかけ、その答えを待ち続ける」というふるまいが、とりあへずの人間の世界では「礼」というかたちで規範化されている。
 
 霊的教育というものがあるとすれば、それは「礼」という規範をまずかたちとして、身体技法として教えることになるだろうと思います。それは子どもたちに宗教史を教えることでもないし、聖句や経文を暗唱させることでもないし、ローカルな宗教儀礼を強いることもない。ただ感覚を研ぎ澄まし、かすかなシグナルに耳を傾け、存在していないものにさえ人間はコミュニケーションすることができるという現事実を実感すること、それが霊的教育の出発点であり、かつ到達点であると私は思います。
 人間は存在しないものとさえコミュニケーションすることができる。ならば、現にここに生身の身体をもって存在し、声を聞き、触れることができる人であるならば、どれほどに異地的であろうと、どれほど未知であろうと、コミュニケーションできないはずがない。私は葬礼から出発して、そのように合理的推論を進めます。
そういう聖地を巡歴していると、ああ世界中どこでも人々は「憑白」の出す波動にちゃんと感応して、そこに祈りの場所を作っているんだということがわかります。教義や戒律は知らなくても、そういう「バイブレーション」に反応して、息をひそめて、声にならない声、シグナル以前のシグナルに全身で耳を傾けている人々のただずまいの「可憐」さを私は深く愛するのであります。
 そのとき私が思い描いてるのは、静かに「波動」をとらえようと心身の感度を上げている「祈る人」の姿です。
「祈る人」とは、その全力をあげて、聞き取れないほどに微かな「存在しないもの」からのシグナルを受信しようとしている人、「存在しないもの」にメッセージを送信しようとしている人、「ここではない外の世界」との交信回路を繋ごうとしている人のことです。私はそのような人こそ「真に霊的な人」であると思います。
 私が政治的な「宗教教育」を厭うのは、それがこの「外へ」という根源的な趨向性を傷つけるものだからです。さきほど述べたように、国民国家における「祭神」とは「こちら」は「こちらだけの宗教」で固められ、「あちら」は、「あちらだけの宗教」で固められている。両者は霊的に断絶しており、それゆえ両者の間にはいかなる霊的な架橋もあえいえないというのが国民国家が奉じる宗教観です。ここには、断絶と排除の力学だけが働いていて、境界線を越えて身を乗り出すという「超越」への契機が致命的に欠けている。
 行政上の境界線と霊的な境界線が一致すると信じている人々、あるいは一致すべきだと信じている人々、私はそのような人を「霊的な人」とは呼びたくありません。彼らがどれほど宗派の教義に忠実であっても、戒律を遵守していても、あるいは宗教的指導者の命があれば死ぬことも辞さぬほどに敬虔であったとしても、私はその人を「ファナティックな宗教原理主義者」だとは思いますが、霊的な人間だとは思いません。「霊的である」というのは、私自身の定義では「外」と交通したいという志向に満たされているということに尽くされるからです。全知全能をあげて、自分の理解も共感も絶する境位に向けて越境する志向だけが人を霊的なものたらしめる。私はそう信じています。