発心のとき(阿波)
アジアの国々を移動していた頃を想い出した。
大した資金もなくまるで彷徨うように移動を繰り返す中で、
頭で解っていたことが自分にとって役立ったこともあれば、
逆にそのことで混乱することも多く、
知識や情報だけを鵜呑みにするよりも、単純にその場でその状況に学び、
気付かされた何かを信じることの方が重要だった日々が甦る。
ほとんどが盗まれてもいいような荷物の中、
カメラだけは盗まれたくなかった。
私がカメラマンとして過ごした初めての時間がアジアの移動にあった。
ファインダーの中にあった様々な一瞬。
それら一瞬を心と肉体に刻むように一歩ずつ前に進んだ移動だった。
目の前に現れた世界は予想もつかない風景だったり、
そこには知らなかった現実、風習、文化、宗教が渦巻いていた。
その風景の中で色鮮やかなものばかりを捉えようとしていた自分がいた。
実際、それしか捉えることはできなかった。
でも最終的に向かい合わなければならなかったのは、
真新しい世界の風景ではなく、
それを見ている自分自身でなければならなかったのだ。
だからひたすらに自分自身と向かい合うために
私は新たな移動を決意した。
期待と不安、揺れ動く緊張に胸が高鳴る。
なけなしの金で四国に到着した私はまず四国八十八箇所霊場の
一番札所がある「霊山寺」へと向かった。
一番札所の売店で歩き遍路用の地図と納め札のみを購入して
店を出ようとしたところ、店主に呼び止められた。
店主は返品になった白衣の上着を持って行きなさい、と言う。
嬉しかった。と同時に気分が引き締まった。
頂いた白衣を身に纏い、いよいよ一番札所より打ち参りとなった。
知識や情報に頼らず、在りのままで体感し、吸収するうえで
自分自身と向かい合うことが目的だったこともあり、
私は大した情報を事前に持たず地図だけを頼りに一歩一歩進み巡拝した。
流れる風景はゆったりとしていた。
時間はあるようで、ないように感じられた。
踏み出す一歩が一秒を感じさせる以外、時計の短針が示す
束ねられた時間を感じることはない。
一秒が、一歩が大切なのだ、そう想った。
そう想うことで影のように付きまとう足の痛みとも向き合っていられる。
歩き始めてから10日間は足裏にできたマメの痛みがひどかった。
遍路道はアスファルトの車道であったり、土や砂利の山道であったり、
平坦であったり、高低差もあり足裏や膝には負担がかかった。
特に山越えした後の下り坂は膝への負担が大きかった。
十一番札所から十二番札所の「焼山寺」にかけては山越えが二つあり、
そのアップダウンは遍路道中でも厄介な難所とされているが、
御多分に洩れず私の膝も悲鳴をあげた。その後一週間に渡り痛みが続き、
足の裏全体に体重をかけることが出来ず、
足の側面にのみ体重をのせるようにしながら必死になって歩き続けた。
歩き始めて10日間が過ぎてようやく痛みも和らいできた頃、
二十三番札所「薬王寺」付近の道中でお接待して頂いた人から
「城満寺」という禅寺についての情報をもらった。
その情報の中でいくつか気になったことがあった。
気になったと云うより、胸が高鳴ったと云った方がいいかもしれない。
「城満寺」の建築、維持のすべてが托鉢により実践されているということ、
「城満寺」の本堂が、法隆寺宮大工の西岡常一氏のお弟子さんにあたる
小川氏によって建てられたということを知ったからだ。
私は以前より小川氏の著書を読んだことがあり、また講演会に出向いたことも
あったのですぐに「城満寺」に立ち寄り、そのまま5日間を過ごした。
城満寺の本堂はお寺には珍しく、
飾り物や塗り物がまったくと云っていいほどなく、
その外観は実にシンプルで空間的なバランスがとれた見事な建物だった。
閑静な本堂中央には木彫りの仏像が三体たたずんでいる。
斜めに洩れる柔らかな光が仏像をかすめ、まるで陰陽を描いているように
感じられた。
禅寺である城満寺では座禅を組むことができる。
本堂での座禅は朝4時から6時まで2時間、静寂に包まれ座り続けることになる。
私は小川氏の描いた空間の中に身を置き、歩き続けた道程、
その道程にあった変化の様子について顧みるために座り続けた。
歩き始めてから今に至るまでの時間を、変化の様子として捉えようとすれば、
それまでの出来事、不安、希望、痛み、喜びが走馬灯のように頭の中を
駆け巡るのが見えた。無意識の中にある何かが隠れた感情を刺激し、
その何かが次第に意識へと変化して行く。
「座るとは座ることのばからしさを知るために座り続けること」
「息とは自らの心を吐くこと」
城満寺で修行していらっしゃる僧侶から頂いたそれらの言葉が、
自身が座り続ける中で妙な現実味を帯びて迫ってきた。