涅槃のとき(讃岐)

伊予の国で癒された私はお遍路における最後の道場へと足を進めた。
時間は変化の様子。時間を遡ろうとして見えないことは多々あったが、
変化の様子を遡ろうとすれば、そこには路の上の様々な出来事が駆け巡る。
様々な想いが胸の奥を熱くさせる。
あと一国で遍路という移動も終わる頃、自分がこれまで心の中で
頑なに持ち続けていた不必要な荷物が消えていることにも気付いた。
自分と他人、自分の世界と他人の世界、それらを測り続けた
古い心の物差が消えていた。
すべては縁をもって関わり、一つの世界に存在している。
ある晩、俗にホームレスと呼ばれる男と共に夜を過ごした。
日が暮れて、野宿する場所として灯りの洩れる小さな駅のホームに近づくと、
ベンチにボロを纏ったその男が座っていたのだ。
簡単な挨拶を交わし、私はザックを降ろした。
その男は乳母車を押しながらお遍路をしていることを打ち明けた。
いわゆる職業遍路である。
職業遍路は遍路して歩くと云うよりは、同じ地域を何度も行き来する中、
人からの接待、施し、托鉢をあてにして一生涯、四国を歩き続けるという人々で、
四国には常時150人〜200人ほどいるという話をそれまでの遍路道中で
聞いたことがあった。春先には接待を目当てにたくさんのホームレスが大阪から
四国に流れ込んでくるという話もあった。
すべては縁をもって関わり、一つの世界に存在していた。
私は遍路を介して四国にて出逢ったその男とその日の夕食を共にした。
ご飯、みそ汁、漬け物等の簡単な食事を振舞ったものの、
男は久しぶりに米にありつけた、と喜んでくれた。
私は男の瞳にも海のような深さを感じた。
1月22日、結願の日。
長い道程を歩き続け、辿り着いた先で私は深く頭を下げ祈った。
ぬくもりを頂いたすべての人々に対して、
長い年月をかけて踏み固められた遍路道に対して、
深く深く祈りを捧げた。
祈るとはお願いすることではなく、
心の中で共に在ることの実感を込めて。
感謝する気持ちがあれば
優しく謙虚でいられる
そしてあゆみ続けられる
同行二人
お遍路道をころがり続ける中で
いつも気持ちはふたつのようで
ひとつなのだろう