ハンナ・アーレント

映画『ハンナ・アーレント』@岩波ホール

悪の凡庸さ、この言葉は今の時代に突き刺ささる。
日本の成熟された社会に、問題を提示していると思う。

哲学者アーレントの信念 “考えることで、強くなれる”
”生まれ落ちた場所は選べなくても、友達は選べる”
色褪せない普遍的な思想を感じる。

依存、マニュアル、感情を忘れた機械、思考停止、それが”慣れ”という究極の怖さだと思う。

天に栄える村

福島県天栄村の農家を追った、長編ドキュメーンタリー映画観。

http://www.sakuraeiga.com/tensaka/

復興との闘い、そして生きる姿に、涙がこぼれ落ちました。
こういう映画が、より多くの方々の眼に触れる事を願っています。

後藤さん、ありがとうございます。

131105

谷地村さん、どうもありがとう!

映画ビル・カニンガム&ニューヨーク、
共感できるものありました。

一緒に観たカーネーギーホールが、懐かしかったです。
あの時、色々ありましたけど 笑
今では良い思い出。

何だか、最近のモヤモヤがスカッとしましたよ。

求道者ビル…
あの言葉が止まった瞬間
ビルのlifeを感じました。

フィルム時代のあの時の想いを、ふと省みる時間
最後のビルの言葉に、東京を想像。

Caravaggio

以前から気にかかっていた映画『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』を
観にいってきました。
ーその人生は、光の部分は限りなく美しく、影の部分は果てしなく罪深いー
その言葉通り、美しく鮮烈に描かれた映像からじんわりとした余韻が残り、
ミケランジェロ・メリージの絵画と向き合う心の軌道、情熱、慈愛が伝わってきました。
久しぶりに考えさせられました。

受け継がれてゆくこと

『余命』という映画を観た。
生きること死ぬこと、受け継がれてゆく命への循環。
人間愛の中にある絶妙なバランス。女性の強さ、男の脆さ、儚さ。
うつろいの瞬の太さを感じた。
永遠はない今を生きている、余韻の深く残る映画だった。

未来を写した子どもたち

未来に希望を描き出す映画をみた。
女性写真家(ザナさん)とインドの売春窟で暮らすこどもたちのものがたり。
インドのカルカッタ(現コルカタ)の売春窟にある赤線街で、こどもたちと生活を共にする中で、写真を教えるひとりの女性。複雑な家庭環境の中で暮らすこどもたち自らがシャッターを切ることで新たな世界を発見してゆく。そんな中、希望の架け橋となって存在する彼女の生きる姿勢がとても美しく思えた。子供たちの生まれ落ちた現状から、かすかな希望の光をカメラを通して教え、彼女自身の人生を懸けて取り組む強い意志(こどもたちに教育の場を)に胸が熱なった。
なにかを背負うことから生まれる、新たな気持ちの衝動。
強い想いは、新らたな波となって気持ちを繋げてゆく。
あきらめないことの大切さ、まっすぐさに背中を押された。
ひとの気持ちが動くとき、そこには確かな誠実さがあった。
http://www.bornintobrothels.com

BASURA(バスーラ)

四ノ宮浩監督の描くBASURAの世界。
フィリピンのマニラに今現在も存在する巨大なゴミ捨て山の街(スモーキーマウンテン)。
以前から、多くのカメラマンがここを取材し、気になっていた街だが、この映画を通してゴミをめぐる根深い問題、過酷な現実を再認識させられた。
ある家族の生活を年月を経て追ってひもとかれてゆく、本質めいたゴミ山の現実問題。
貧困、飢餓の連鎖。政治と教育。そこで暮らす子供たちの未来に、今の循環を変える、本質的な光は射してゆくのだろうか・・・。胸が痛かった。
縁という巡りくるときの流れの中で、使命感にかられた監督の生き方は、とても純粋、素直、そしてシンプルだった。行動、気持ちが前にあったことが何よりも嬉しかった。
都写美にて現在ロードショー。

ドキュメンタリー映画を通して

知人の薦めもあってチベット、ミャンマー関連の
『風の馬』『雪の下の炎』『ビルマ、パコダの影で』という映画を見た。
どの映画も、憂いと怒りを感じさせる映画だった。
今現在でも続いている、非道で理不尽な政治的状況化が齎す、眼を伏せたくなる現実ばかりであった。
そんな中、『雪の下の炎』の中で演じる、チベット僧パルデン・ギャツォの計り知れない
どんな逆境にたたされようが希望を失わない、精神の可能性には心打たれるものがあった。
中国政府軍の過酷な拷問を33年間耐え抜き、非業の死を遂げた同胞のために現在も闘い続けるパルデンの姿に人間の本質的な可能性を感じた。
恵まれた日本の社会で、現実社会に揉まれ忘れがちな時に、
今尚こういった現状が進行していることに対して無関心でいたくないと切に思った。
矛盾だらけのこの世の中で、真実とは何かを深く考えさせられた。