2008年08月03日
遍路道中において札所の数は少ないものの、距離が最も長いとされる高知。
風景は見渡す限り海。蒼い海が続いていた。
その海の蒼さは深く、何もかもを受け入れてさえ怯むことのない、
旅人の瞳の深さを連想させた。海の如く蒼き深き瞳を持った旅人。
そんな旅人に私はアジアを移動している時に出逢った。
彼は私よりも年下だったが、私よりも大人だった。
己について探求し、己と世界との関わりの中で想い立ったことすべてを
実践することのできる旅人だった。
彼との出逢いが様々な縁をもたらしたように想える。
彼を見ている中に、私自身の足りないものを見出すことができたし、
彼の言葉の中に、私が言葉で語れない私自身の魂の震えを見出すこともできた。
私が四国八十八箇所をお遍路しようと決意した背景に彼との縁がもたらした
心の動きがある。
単純に自分自身と彼を比べてしまうことには何の意味もない。
ただ、自分に足りないもの、自分に必要なものを探し歩く中で
自身と向き合い、多くのことを実践して行くことには大きな意味があるはずだ。
私はその蒼く深い海を見つめながら、初心を思い返した。
海を見渡せる遍路道中では、真っ黒に日に焼けした漁師達との出逢いがあり、
その笑顔に助けられ、癒された。
漁師達の話はロマンに満ちていて、そして何よりも男気溢れていた。
水揚げされた魚の匂いが厳しい漁に向き合う男達の匂いに感じられた時、
私の中に熱いものが込み上げてきた。
美しかった。
どんなにくたびれ、汚れた格好をしていても、毎日必死に生きる漁師達が
とても美しかったのだ。
お遍路はお寺を打ち参りする中に、その道中に、様々な人々との出逢いがあり、
その場に香る様々な匂いを通じて、自分らしく毎日を生きている人々が
通りすがりの者に何かを学ばせてくれる、教えの庭であることに気付いた。
その教えの庭において学ぶには、すべてを受け入れようと気張るのではなく、
自分のすべてを預けてしまうことだと実感した。
私は生きているのではなく、生かされているのだから。